‘일본’ 소설과 ‘한국’ 독자의 상상의 공동성 - 오쿠다 히데오『남쪽으로 튀어!』를 중심으로 -
Southbound and Readers' Utopia
- 발행
- 2014
- 소속·발행
- 한양대학교 비교역사문화연구소
- 출처
- 국내 KCI
- 원문등록
- 2014-03-06
- 원문
- 원문 보기 ↗
개념
키워드
「日流」, 奥田英郎, 『サウスバウンド』, 読者, ランシエール, ユートピア
초록
二〇〇〇年代、韓国の出版市場では、日本語文学の翻訳が大きな人気を博した。それに対して、なぜという問いが多く提起されたが、本稿では、多層的な「外部」にまたがるだけでなく、韓国内の読者たちからも高い人気を得た奥田英郎の『サウスバウンド』を読むことにより、従来とはやや異なる見方からそのブームを考察することを試みる。この小説は、日本語という出版言語で書かれ、翻訳をつうじて国-外へ移動した。また、小説の登場人物は、国民であることから逃れるために、「日本」の外部を求めつづける。その外部性を読む読者という次元は、小説は読むという実践がなければ意味をなさないにもかかわらず、今まで比較的に見えない領域に留まっていた、もうひとつに外部でもある。そして、小説を読むことは外部、ないものとされるユートピアを偏在させる行為である。翻訳された『サウスバウンド』の読者たちは、「南へ飛べ」という韓国語訳のタイトルが表しているように、自らが処されているなんらかの現実からの逃走、外部への欲望を小説に書き込む。筆者による『サウスバウンド』の読みでは、外部は地図上の場所に設定されるわけではなく、世界の内部に切り込む外部性としての「集まり」において形成されることを確認した。「日本人」か「外国人」かという区別自体が問われることはない「南」の共同性は、リゾート開発をめぐる同床異夢の集まりのように、分散された個人でもなければ統一性を確保した組織でもないばらばらの人たちの、それでも外部を確保しようとする戦いにおいて担保される。とりわけネットに横行する他国に対する憎悪の言説からも明らかなように、「日流」や「韓流」と呼ばれる「文化交流」は、日韓の間のさまざまな葛藤を解決するにはあまり役に立たなかった。それは、そもそも文化交流や共存などといった捉え方そのものに問題が内在していたためではなかっただろうか。日本文学ブームを、もとから交流すべき、または和解すべき主体としてのネイションを想定せず見ることにより、今までとは異なる共同性を想像しうる契機として取れ直すことが必要なのもそのためである。